それでも私はパチンコを打つ

30数年もパチンコをやって来た私にとって、パチンコ界から一切足を洗うことはできません。今後も続けます。パチンコ好きな皆さんも節度を持って楽しみましょう。

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2008年01月13日(Sun)
それでも私はパチンコを打つ


このブログでは、「若い人が、私のようにパチンコ界にのめり込んで、貴重な人生を棒に振ることのないように」、との思いを込めて書いています。
パチンコの稼ぎで食って行こうとするなら、それ相当の覚悟はして、この世界に入って来るのでしょうが、その事前の覚悟以上に現実は厳しいものなのです。
このことは、このブログでも、「記事のテーマ」をいろいろ替えて何回も説明してきました。

しかし、パチンコ好きな読者の方より、「不動さんは、普通の人では考えられない30数年もの間パチンコをしてきたというのに、そんなにパチンコを否定されるのですか」と抗議にも似たメールを多数いただいています。

私はこのブログの「パチンコがある幸せ」でも書いたように、パチンコ大好き人間です。しかし、その弊害に陥った人も多数目にしてきています。
そこで今日は、この問題について「私の今日までの歩みと考え方」を紹介してみます。

私は小学生時代からの親友(現在、地方の県ですが十数店のパチンコ経営者)の父親がパチンコ店を経営していたため、毎日学校から帰ると夜遅く迄パチンコを打って遊んでいたのです。
昼間、店が混雑する日は遠慮して、その代わり夜通しスイッチを入れてもらって朝方まで打って遊んでいました。
その為、手打ちの特殊技能(1点目指して流暢に打てる技)を習得していたのです。
この為、パチンコで普通のサラリーマンの人の倍ほどの稼ぎがあり、このことが災いして進路判断を誤らせ、大学卒業時に就職もせず、ズルズルとパチンコを続ける羽目になってしまいました。
途中30歳前頃に誤りに気付いたのですが、もう手遅れ(この当時はこう思っていた)で、やむなく、この道を進んで今日に至っています。
このころは、日常の生活は極端に切り詰め、稼いだお金のほとんどで株式を購入していました。楽しみはこの株式が増えることだけだったのです。



こうした暮らし方の誤りに気付いた最初のキッカケは、好きな彼女ができて、結婚を申し込んだ際に、その親父さんから猛反対をされ、駄目になったことです。
が、こんなことになるのは、パチプロをやっている以上ある程度の覚悟はしていたのです。
私がパチプロをやっていて、本当に後悔したのは、次のことに出くわしたときでした。

私は学生時代は成績はトップクラスでした。
これで自己満足していました。
当時、学校の成績は中程度で、背は低く風采の上らない友人がいました。
一緒に合コンなんかに行っても、女の人は見向きもしないのです。哀れにさえ思ったものです。
後に分かったことですが、彼は、この女性に持てない屈辱をバネにして、もっぱら国家公務員上級試験に向けての猛勉強をしていたのです(だから学校の成績なんか頓着してなかったのです)。

そして彼は卒業時には見事国家公務員上級試験に合格して大蔵省に入省しました。
私はと言えば上記したように、愚かにも収入がよいパチンコを続けていこうとしていたのです。
そして卒業後、彼は東京に行ってしまって、やや疎遠になってしまいました。
同窓会で合うとか、年賀状のやり取り程度になっていましたが、10年近く経過して、結婚式の招待状が届いたのです。

その結婚式に出席して唖然としました。
相手の女性は長身ですらりとしていて、色白の物凄い美人なのです。○○院大学卒の才女です。
しかも聞けば、上流家庭(大邸宅に住み、父・兄弟は大会社の重役や医者)のお嬢さんとのことです。
このときほど我が身の処し方の間違いを思い知らされ、惨めに感じたことはありませんでした。
社会の正道の職業に就くことの重要性を改めて思い知らされました。



しかし、私は今更どうしようもなく、その後10年間ほども、社会的に認知されてないパチプロ人生を悶々と歩んでいました。常になんとかしなければと考えていました。
鉄心の仲間で、店舗を購入して商売に転業する人、資格を取得して事務所開業する人などはいましたが、一商店主・事務所主になるには資金的には問題無かったのですがどうも踏み切れませんでした。なにか大きく飛躍できる事業をしたいと思っていたのです。
その転機は以外なところからやって来ました。
友人が経営している会社(小企業)が借金だらけで倒産の瀬戸際になっているので、経営権の譲渡を条件に援助を懇願してきたのです。

渡りに船というか、即援助を申し出ました。資金は手持ち株の大半を売却しました。
こうして、社会的に認知された企業の社長に就任したのです。
世間から蔑まれることのない職業である「社長」になったのです。
社屋の社長室から、京都市内を眺めたときの満足感は格別のものでした。

しかし、就任してみると、やがて、長年パチンコばかりやってきたせいか、あのヒーバーの興奮が忘れられないのです。
しかも追い打ちをかけるように、この時、次の様な衝撃を受けることがあったのです。



このころ私の従兄弟が癌で死亡しました。歳は59歳でした。
彼は、会社勤め中は、家族だけのことを思い、まじめ一筋にやって来ました。
この間趣味などはほとんど楽しまず、それは定年退職後にと思っていたのです。
楽しみを後延ばし、後延ばしして、まもなく来る定年後には、あれをやろう、これをやろうと夢膨らませていたのです。
望遠付高級カメラ(趣味の写真撮影用)や、キャンピングカー(趣味の旅行用)もなども購入して用意していました。
ところがあと少しで定年だというときになって、癌になり半年ほどの入院生活であっという間にあの世に逝ってしまいました。

入院中は何回も見舞いに行きましたが、あるとき、付き添っていた奥さんがいなく2人きりになったとき、しみじみと私に告白してくれました。
それまでは、彼は、私のパチプロ人生を常に批判し続けていたのです。私のことを不動家一門始まって以来の恥さらしな人間だと言っていたのです。その彼が言うのです。

『今迄、君を悪く言ってきたが、すまなかった。人間には何をやらねばならない、なんてことはないんだと思う。
世間に迷惑をかけず、自分が没頭できることがあるなら、それで生きるのが一番だよ。
私は、世間の道徳みたいなものに縛られて、今まで、よい夫を演じ、やりたいことも総て我慢し、楽しみは総て退職後に残してきた。
しかし、今、失敗だったことに気付いた! とても残念だ!悔しい!悔しい!』
と、ボロボロと涙をこぼしながら、私に訴えるのです……。
それから数週間して彼は、あっけなく、あの世に逝ってしまいました。
葬式後の火葬場で、煙突から彼の煙が空に消えていく光景を見て、人生というものを深く考えさせられました。



そこで、社長就任1カ月ほどで、会社の実質経営は、友人に任せて、自分は大好きなパチンコを続けることにしたのです(ただ以後も、出資金の関係で名目上は社長を続けています)。
若い時なら、ともかくも、どうせ踏み外した人生で、この歳までやって来たのだから、残りの人生は世間体など考えず「自分が本当にやりたいことをやって行こう!」と思ったのです。

おかげで、いまは、昼はパチンコ、時折は社長としての会社の対外的業務を、そして夜は株式投資、深夜はこのブログを造ったりして、自分で納得した充実した日々を送っています。

皆さんは、今を楽しむことを後送りする人生を送っていませんか。
人生は短く、あっと言う間に終わります。
死は突然やってきます。
社会的地位やお金などどんなにあっても、死に直面すれば虚しいものです。





   


私(不動 忠)は30数年もパチンコ一筋で暮らしてきて(滅多にいません)、パチプロ集団「鉄心」を主宰しています。
パチンコ界では、安定的に稼いでいくことは容易ではありません。ほとんどの人がトータルでは僅かな稼ぎか負けています。
パチンコ界で、真のプロとして生きている人は、数える程しか居ません。
皆さんにこの現実を知ってもらって、深入りしすることのないように、また若い人が安易にパチプロを目指すことを少しでも躊躇してもらうため、このブログを書き、公表することを決めました。


パチンコ必勝法については、ホームページやブログで、多数主張されています。
そのほとんどは、攻略法を販売する営利目的でページを公開しています。
ですが、ある方法で打てば即ガバガバ稼げるといった夢のような方法などありません。
私のこのブログは、「パチプロの厳しい実態と、本物のパチプロがどのような方法で稼いでいるのか」の、2つの公開を目的(非営利目的)としています。
尚、このブログで、「こんなことを書いて欲しい、教えて欲しい」の希望があれば、連絡ください。なるべく希望にそった記事を書きたいと思っています。
尚、筆者の個人的メールは下記の通りです(ウエブ上のメールです)。
salon777@mail.goo.ne.jp

カレンダ
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